早見和真『アルプス席の母』感想|“高校野球の裏側”で揺れ動く親たちのリアルに胸がざわついた

2025年の本屋大賞にノミネートされていた作品の中で、ひときわ気になったタイトルがありました。
それが、早見和真さんの『アルプス席の母』です。
野球が好きな私にとって、“アルプス席”という言葉には特別な響きがあります。
けれど、そこに“母”という言葉が並ぶことで、不思議な違和感と興味を抱きました。
「応援席にいる母の物語って、どんな展開なんだろう?」
そんな好奇心から手に取ったこの作品は、想像以上に深く、心に残る物語でした。
あらすじ
秋山菜々子は、神奈川で看護師をしながら一人息子の航太郎を育てていた。湘南のシニアリーグで活躍する航太郎には関東一円からスカウトが来ていたが、選び取ったのはとある大阪の新興校だった。声のかからなかった甲子園常連校を倒すことを夢見て、息子とともに、菜々子もまた大阪に拠点を移すことを決意する。
不慣れな土地での暮らし、厳しい父母会の掟、激痩せしていく息子。果たしてふたりの夢は叶うのか!?
(引用元:小学館公式サイト)
https://dps.shogakukan.co.jp/arupususekinohaha/
感想(ネタバレあり)
・菜々子の覚悟に感動した瞬間
物語の最初で菜々子が大阪に拠点を移す決断をしたシーンには、親としての覚悟が感じられました。自分一人で息子を育て上げることを決めた菜々子は、その選択に対して迷いを見せず、むしろ前向きに捉えている様子が印象的でした。親として、子どもの夢を支えるためにどれだけの覚悟が必要なのかを改めて考えさせられました。
・父母会の厳しさと大人たちの世界
父母会の厳しさと、その背後にある大人たちのドロドロした世界には、正直イラッとしました。特に、菜々子が活動費を集める会計係を不本意ながらも引き受け、他の保護者たちとの間で生まれるぎこちなさには胸が痛みました。
仲の良い香澄からも8万円を徴収しなければならなくなったとき、彼女はこう言います。
【香澄】「いや、払うんは払うよ。これが自分のことやったら絶対に払わんけど。陽人のためやったらはらわなあかんやろ」(p.170)
さらに続けて
【香澄】「子どもを人質に取られとるみたいでホンマに腹が立つ」 (p.170)
と言った場面は、私にとっても非常に印象的でした。香澄の言葉に込められた怒りと、親としての複雑な心情が強く伝わってきました。
このセリフには、子どもたちを守るためにどれだけの犠牲を払わなければならないのかという現実の厳しさが表れていて、共感を覚えました。
・モヤモヤがあふれた、あの一言
菜々子が監督にスカウト遠征費を渡す場面は、読んでいてなんとも言えない気持ちになりました。
「これは本当に必要なお金なのか?」という疑念や、「伝統だから」という理由で受け継がれてきた体質への怒りが、菜々子の中でも抑えきれなくなっていきます。
監督から「来年以降はこんなこと絶対にしないでください」と言われたとき、菜々子は思わずこう返してしまいます。
「本当に来年以降はしなくていいのでしょうか?」
その直後、監督に
「どういう意味でしょう、秋山さん」
と言われ、ハッとしてあわててうつむいた菜々子の姿が、とてもリアルでした。
本音とはいえ、自分の不用意な一言で頑張っている息子に迷惑をかけるかもしれない。
そんな母親の息子への想いが感じられる場面でした。
・親の背中を見て育つ子どもたち
でも、そんなやるせなさを感じていた菜々子に、少し救いをくれる場面がありました。
それは、航太郎が仲間3人と一緒にアパートに帰ってくる場面。
どうやら、彼らは菜々子と監督とのやりとりを知っていたようで、それを好意的に受け止めていたのです。
【蓮】「監督に面と向かって文句を言ったって、俺たちみんな知ってます。航太郎のおかんめちゃくちゃイケてるって、すげぇ盛り上がりました」
【菜々子】「そうなの?」
【蓮】「うちのおかんはあり得んって怒ってましたけど。俺らにしてみればあの監督に従順なおかんたちの方があり得んと思うので。やりたいようにやってください。問題ないんで」(p.219)
新キャプテンの西岡蓮と菜々子が会話するこのシーンには、ホッとさせられました。
理不尽なことに声を上げたわけじゃなくても、疑問を投げかけた大人の姿を、子どもたちがちゃんと見てくれている。
そして、ちゃんと理解してくれている。
親世代よりも、よっぽどまっすぐで健全な価値観を持っていると感じられて、読後感が一気に明るくなりました。
・“伝統”を断ち切ろうとする勇気
物語の終盤、菜々子は翌年の会計係を引き受けた日野明日香に、監督への「活動費」8万円について伝える場面があります。
そのとき、明日香から考えを問われ菜々子はこう言うのです。
【菜々子】「できれば、こんな伝統はなくした方がいいと思ってるけど。これからの保護者のためにも」(p.236)
たった一言だけど、そこには1年間の葛藤、怒り、そして何より“これから”を想う希望がにじんでいました。
自分のためではなく、これからこの学校に関わっていく“誰か”のために、あえて声にする——
それは菜々子自身の成長であり、親としての覚悟の表れだったように思います。
同じような思いは、息子・航太郎たちにも共通しています。
かつて先輩たちから理不尽な暴力を受けていた彼らは、母に対してこう言い切るのです。
「自分がやられてイヤなことはしない」
シンプルだけど、これ以上ないほど本質的な言葉。
彼らは自分たちの代でその連鎖を止めようとしている。
親と子、それぞれが“未来の誰か”のために声を上げる姿に、心の底から希望を感じました。
・菜々子の大阪への適応と成長
物語の冒頭では大阪が嫌いだった菜々子が、終盤では大阪弁を使いこなし、「半歩近い」という関西人の特性に馴染んでいく過程が描かれており、菜々子の成長を感じました。彼女が大阪という土地に馴染むことで、物語全体のテーマでもある“変化”と“成長”がしっかりと表現されていて、感動的でした。
読み終えて思ったこと
アルプス席の母』は、高校野球をテーマにしながらも、
ただのスポ根ものや青春ストーリーではなく、
「親」という立場に立たされた大人たちの心の動きを丁寧に描いた物語でした。
息子を思う気持ちと現実の狭間で揺れ動く菜々子。
父母会という“ルールだらけの世界”に翻弄されながらも、
大人として、親として、自分の考えを言葉にしようとするその姿に、
僕自身も「大人って何だろう」と問い直すきっかけをもらったように思います。
そして、息子・航太郎たちが口にした「自分がやられてイヤなことはしない」という言葉。
それは、世代を越えて繰り返されてきた悪しき伝統に、
小さくても確かな“NO”を突きつけた瞬間でした。
親も子も、過去に縛られるのではなく、
未来の誰かのためにできることを選んでいく。
そんな姿勢に、強く心を動かされました。
「高校野球」という表舞台の裏側にある、
人間の成長と葛藤にここまで向き合った作品は、なかなかないと思います。
野球が好きな人はもちろん、子どもを育てるすべての大人に、ぜひ手に取ってほしい一冊でした。